CSRという言葉をご存知でしょうか?
Corporate Social Responsibility、日本では「企業の社会的責任」と呼ばれていますが、簡単に言ってしまえば、企業は自社の利益だけを追求するのでなく、顧客、取引先、従業員、株主、その地域自治体や住民など、関わりのある全てに対して、ひろく貢献し、責任を果たしていく存在でなければならないということです。
戦後、貧しかった日本は、生産を最優先させてきたことで、多くの問題をかかえてきました。粗末な設備で四六時中けむりを出しつづければ、当然、大気汚染もおこるし、劣悪な部品や労働環境では欠陥商品だらけだったでしょう。しかし当時、多くの企業はそうした問題より、モノをつくることこそが重要だと考えていましたし、国民も経済成長に豊かな生活を夢見ていたわけです。
しかし、日本も成熟社会へ移行するにしたがって、企業と国民の立場が逆転します。
個人が企業に対して「NO」を突きつけるようになってきました。
バブル崩壊後は企業淘汰の時代に入り、国民が企業を取捨選択するようになってきました。また、株式の持ち合い解消が進み、外国人株主比率が高まったことも、日本企業に緊張感を生みました。外国人の大株主は厳しく経営をチェックします。安定した株価維持のためには、企業の透明性を高め、株主へ積極的にディスクローズをしていくことが必要不可欠となってきました。
このように、企業を取り巻く目が厳しくなってきたことで、健全な経営はもとより、さまざまな関係者との共存共栄を真剣に考えなければ、企業は存続していかれなくなってきました。そういう背景から生まれてきたのがCSRです。時代の流れとはいえ、最近、多くの日本企業がCSRに目覚め、熱心に取り組みはじめているのを見ていて、日本企業の質、経営者の質が高まっている証拠だなぁ、と深く関心をしていたところでした。
ところが、おどろいたことに、いまだに戦後の体制を引きずっている、化石のような企業がありました。「三菱自動車」です。
毎日のように新聞、ニュースで取り上げられていますから、三菱自動車の犯した欠陥隠しの罪についてはよくご存知でしょう。先週、ついに河添元社長ら幹部6名が業務上過失致死容疑で逮捕ということになり、「スリーダイヤモンド」は傷だらけです。
顧客無視の経営を続けてきた結果、長い年月をかけて築き上げてきたブランドが、あっという間にダメ会社のマークとなってしまうのですから、恐ろしいものです。
なぜ、ここまでひどいことになってしまったのでしょうか。
先日、「三菱ふそう ISO9001の認証、取消しへ」という新聞記事をみつけました。
「ISO」とは国際標準化機構が定めた品質管理のシステムのことです。工場単位で取得するのですが、「製品の品質にばらつきがない」「違法な行為をしない」「顧客の声を反映させる仕組みをつくる」など、さまざまな項目が織り込まれていて、ISO取得は「うちの工場は国際ルールにのっとって製品をつくっていますよ」という証明にもなり、CSRに取り組む企業にとって、取得は基本中の基本となっていました。取材で工場などにおじゃますると、よく「ISO9001取得!」とか「ISO14001の工場」(環境ISO)などと、大きな張り紙がしてあったりします。取得は簡単ではないので、誇らしげにアピールしているのですが、一生懸命やっていらっしゃるんだな、と関心させられたりしました。
しかし、その「ISO」も三菱自動車の事故の欠陥を防ぐことができませんでした。
たまらずジュネーブにあるISO本部は取消しという措置に出たわけですが、
「ISO」なんてその程度のものか、と少しがっかりしました。
しかし、よくよく考えてみれば、モノをつくるのは「人」で「ISO」ではありません。
モノづくりは「SKILL」でなく「WILL」なんですね。
いくら立派な証明書をもらっても、そこで実際にモノをつくっているひとりひとりが、
自社製品を愛し、責任をもってモノづくりにあたらなければ、なんの意味もないということなのです。
三菱自動車は、顧客に満足度の高い車を提供する為でなく、もっと機械的に、事務的に「ISO9001」なるものを取ったのでしょう。
究極の形式主義です。
今回の問題はここです。
表向きはりっぱな会社、でも、大事なことが欠落している。
これは、全て経営者の責任ですね。
TVニュースで流れる記者会見でも、下を向いて、紙を読み上げて、立ち上がり、頭を下げ、退場する。非常にたんたんと、極めて形式的に行なわれていますよね。
ああ、三菱らしいなあと、見ていて思いました。
もちろん感情をあらわにして謝罪すればいいのかといえば、そういうことではありませんが、なにか、もう少し人間らしい雰囲気があってもいいのではないかな、と思っているのは私だけではないはずです。
企業が社会的責任を果たすということは、資格や証明書をとることではありません。
ボランティアだといって、ただ、お金をばらまくことでもありません。
真剣に社会と共存するということを考えることなのです。
ただの証書で責任を果たしていると思い込んでいた三菱自動車のようにならないために…。
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