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舞台俳優という職業もそうだ。
自分でないほかの人物となって、舞台上で生きてみせることで、観客に喜びを与える仕事。
自分も楽しい、みんなも楽しい。そんな素敵な職業だからこそ憧れる人も多いが、ほとんどの人は夢かなわず、挫折していく。
舞台役者=貧乏
その数式を誰もが疑わない。
楽しいことを好きなようにやって、そうかんたんに経済的に豊かになれてたまるか。そんな皮肉が多くのサラリーマンから聞こえてきそうだが、実際、舞台役者は貧乏である。
舞台出演だけで生計を立てることができている人はほとんどいない。
そこに、NOを突きつけた人間がいた。
そんなのいやだ。舞台で食べて生きたいんだ、それにはどうしたらいいのか、と真剣に考えた人間がいた。劇団四季代表、浅利慶太氏だった。
劇団四季は、営業利益255億円をたたき出す、超優良企業に成長した。数十億の新稽古場もキャッシュで支払った。むろん無借金経営である。なぜ、それが可能になったのか取材した。
劇団四季の創立は1953年。慶応と東大の仏文科の学生を中心にして集まった。
当時の演劇活動というと、思想的、政治的な意味合いが強く、劇団四季もそういった数ある「新劇団」のひとつだった。フランスの戯曲を中心に上演し、学生劇団でありながら旗揚げ公演から大入りで、10万円の粗利益を出したと記録されているから、最初から集団として今にいたる素地があったのだろうが、劇団四季をここまで導いた、代表の浅利慶太は大叔父が二代目市川左団次、父、浅利鶴雄は築地小劇場の創立にも参加した舞台人で、松竹で社長秘書も務めた経歴がある。叔父は田辺製薬の社長であった。そういった環境で育ったということも当然影響しているだろう。
その後、劇団四季は着実に観客を獲得して行ったが、俳優の懐は別で、やはり貧乏生活は変わらなかった。一部の団員のTV出演料や先に社会人になった団員の給料をみなで分け合って生活する共産社会のようなスタイルをとっていた時期もあった。しかし、そんなものが長く続くはずもない。芸術と経済問題の狭間で分裂の危機が訪れる。どうしても芝居を続けたいという一心で浅利慶太氏が劇団改革に取り組んだのが59年。どうやったら芝居で食べていく事ができるのか、考え抜いて60年に有限会社劇団四季を設立。月給制の試みはこの時期から始まった。
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