(2/3)
2.テナル川の戦闘
1942年、8月21日の朝、ガダルカナル島のテナル川の川岸は日本兵の屍で埋まっていた。ガダルカナル島奪還を目指す日本軍の一木支隊の第一挺団950名が急襲をかけたが、海・陸・空の統合的な作戦を完成し周到な準備で待ち構える米軍に返り討ちに会うような形で800人以上が戦死し全滅に近い打撃を受けたのである。
米海兵隊は戦闘が終了した直後から下級将校を中心にした一群が日本軍将兵の死体を片っ端から調べ始めた。彼等は、日本兵の背嚢や図嚢そして衣服のポケットを改め何かを探していた。
彼等の探していたのは日本兵の手帳、日記、手紙の類であった。こうした兵士個人の私的な感情を探ることで日本軍の組織の実態を掴もうとしていたのである。
米軍は開戦と同時に語学将校を養成し日本語を徹底的に教育していった。かたや日本軍は英語を敵性語として排除の対象とした。情報に対する考え方と姿勢が大きく違っていたのである。
しかし、米軍も当初は日本軍を情報的に見誤っていた。曰く、日本兵は皆近眼であり眼鏡をしているので、その眼鏡を叩き割れば何もできなくなるので簡単に勝てる。
曰く、日本人は近視と乱視が殆どでパイロットは全員傭兵で、その上、飛行機は木と竹と布でできており、性能はひどく悪いと見くびっていた。
その日本軍から奇襲を受け、真珠湾に停泊していた米太平洋艦隊は壊滅状態になってしまった。ほぼ同時刻に米軍のフィリピン基地も日本軍の空襲を受け壊滅。やがて、マッカーサーの率いる米比軍は日本陸軍に追い散らされた。
こうなると、日本軍に対する評価は180度転換し、日本兵は精強この上なく恐怖の的となった。しっかりとした情報に基づかない風説は全兵士を萎縮させてしまい日本軍と見れば我先に逃げ出す兵がでる始末となり比島で大敗を喫したのである。
やがて、米軍は巻き返しを図るべく、日本軍が占領し飛行場を敷設中のガダルカナル島に海兵第1師団1万3000人を投入、600名程度の海軍陸戦隊が守る同島をなんなく手にした。
そして、前述のように日本軍の奪還部隊を万全の体制で迎え撃ったのである。
比島での失敗に懲りた米軍はガダルカナル島攻防戦の始まりの段階で徹底的な現場情報の収集を行い、日本軍と日本兵を情報的に解析することを試みた。
戦死した日本兵から集めた、手帳、日記の類を語学将校達が徹底的に解読分析した結果、日本兵とて我々と同じに恐怖も感じ、戦争を辛いと思っていることが分かった。
要するに、彼にあって我に無かったものはファイトだけだったと気づき、早速に対日本兵マニュアルが編纂され将兵に配られた。そして、執拗に繰り返す日本軍の攻撃から同島を守りぬき、そこから東京に向けて進撃を開始したのである。
ガダルカナル以降日本軍は敗退を続け、米海兵隊はその戦史にガダルカナル戦の結論として「このとき以来、アメリカ海兵隊の向うところ敵なし」と高らかに記した。
←前のページへ 1/2/3 次のページへ→
|